人生の後半

Latexで数学の問題作成、pythonによるコーディングなどなど

暗記教科の克服

数学が得意な人の特徴として、暗記教科が苦手というのがある。自分自身のことを思い出しても、数学と物理以外の成績はボロボロであった。古文や漢文などからは、完全に逃避していた。しかし、年を取ると、理系の人こそ歴史や国語を勉強すべきなんじゃないかと思う。

不思議ではあるが、人間の脳は自分が興味あることについては、比較的簡単に記憶できる。私はワインが好きなので、ワインの名前などはすぐに覚えられる。ボルドー5大シャトーがシャトー・マルゴー、シャトー・オーブリオン、・・・などは比較的簡単に頭に入るようだ。

高校に入ると英語が面白いと思うようになり、英語の点数が上がってきた。暗記しようとせず、どうして英語の動詞には不規則動詞と規則動詞があるのかなど、そういうことを考えながら勉強していた。動詞だけではない。不定冠詞aと定冠詞theの違いについて、深く考えたりするのもなかなか面白い。中学生の時に、a friend of mine(私の友達)という語句を習ったと思う。当時、なぜmy friendがだめでa friend of mineが正しいのか、理由が分からないまま先生に言われる通り暗記していた。たまたま、数学セミナー2016年の12月号をパラパラめくっていると、正にその理由が考察されており、自分なりにようやく理解できた。次の機会にその記事を紹介しようと思う。

突然の出来事

平成29年11月3日に私の父が息をひきとった。突然の出来事であった。これは普遍的な法則かどうかは知らないが、私は書くことにより悲しみが和らぐ。おそらく家族は誰も読まないこのブログであるが、20年後、30年後に子らがこのブログを訪れ、少しでも自分の生き方のヒントになればとの思いで、以下の文章を書き残しておく。

喪主の挨拶(主要部分のみ)

1. 本日はお忙しい中父の葬儀に御会葬賜り誠にありがとうございます。遺族を代表しひとこと挨拶申し上げます。
2. 厳しさとやさしさを兼ね備え、細かいことには一切口出しせず、子供に対し勉強しろとはひとことも言わないような父でした。しかし、大事な物事には必ず父の意向が反映され方針が決まってゆく、そのような父親でした。
3. 12年前に父は大きな手術を受けました。腸を切除する手術です。執刀医からは、二つの手術方法が提示されました。簡単に言うと、人工肛門を造設する手術と、自分の肛門を温存する手術です。人工肛門のケアは大変です。西口先生が評判の良い名医であったとこもあり、家族は自分の肛門を温存する方法を希望しました。しかし、父は自分の病気や手術のリスクについて、本を読み、同僚や先輩の医者仲間にも相談し、自分で勉強しました。その結果、より安全な人工肛門を造設する手術方法を選択しました。最先端の医療よりも、長年の月日を経て安全性が確立された医療を大切にする。石橋を叩いて渡る、そんな生き方だったように思います。
4. そのような慎重な父親がこんな形で最期を迎えるとは誰も想像しません。おそらく本人も想像しなかったはずです。父は仕事熱心で自分の体調が悪いときも診療所を休診にすることはありません。患者の命を守るのが医師の仕事です。では、医師自身の命を守るのは誰でしょうか。開業医でも、体調が悪ければ、休診にすることができます。しかし父の考え方は違いました。残された者にできることは、そういう父の生き方に敬意を表することです。
5. 本日はこのようにたくさんの方に見送って頂き、父も喜んでいることでしょう。私達は残されてしまいましたが、残ります私共に対しましても変わらぬ御指導を賜りますようよろしくお願いします。本日は誠にありがとうございました。(ここまで)

愛すべき家族の最期は誰もが避けては通れない道であり、記憶のうすれないうちに私の思いを書き残しておく。

続・自分のやりたい仕事が分からない

もっとも自分の一番やりたい仕事につける人は少数派である。

私の場合、志望校を決める直前までは数学者になりかったので、理学部と医学部の両方を受験した。当時の大学入試の制度はA日程、B日程という制度であったので、国公立のダブル受験とダブル合格が可能であった。ちなみに両方合格であった。そこで再び悩み苦しむことになる。数学者以外だったら、パイロット、ジャーナリスト、犯罪捜査をする刑事などにも憧れた。という意味では、今の仕事は自分が一番やりたかった仕事ではないとも言える。しかし、私は医学部への進学を勧めてくれた両親には感謝している。逆説的ではあるが、一番なりたかった職業に就けることが必ずしも幸せとは言えない。

その理由はいろいろある。例えば、もし自分の仕事が一番やりたかった仕事であったなら、スマホ中毒のように仕事中毒になってしまう。実際、私の大学院時代はプロの研究者達と一緒に仕事をしていたが、朝から深夜まで、1年365日、本当に年中無休で研究している人もいた。これは精神衛生上好ましくない。2番目(もちろん3番目や4番目でもいい)にやりたかった仕事で、健康的な生活を送る人生も悪い選択ではない。

自分のやりたい仕事が分からない

高校生や大学生の中に、自分のやりたい仕事が分からないという人が意外に多い。今日はなんとなく職業の適性について考えてみた。僕自身、高校時代は自分が将来何になるべきか悩み過ぎて結局結論が出ず、両親に勧められるままに医学部に入学した。選択肢は多すぎると選べなくなるので、職業を2種類に分けて考えるのがよい。究極的には職業は以下の2種類に分けることができる。

1. 人間が相手の仕事
2. 人間が相手ではない仕事

例えば、数学者は仕事の対象=研究テーマであって、仕事の対象は人間ではない。
しかし、数学の教師は生徒相手の仕事なので、仕事の対象は人間となる。

医者の場合はどうか。少なくとも臨床医は人間が相手の仕事であると思う。
しかし、医学部の中には、人間と密に関わる事を好まない人もいる。
そういう人には放射線科医という選択肢もあって、モニターに映し出された画像相手に仕事をしているほうが向いていると思う。
または、基礎医学の道を志すのもよい。

しかし、看護士という職は人間と密に接する事が好きじゃなければ選ばない方がいいであろう。大企業であれば、人と接するのが好きな人とそうではない人をうまく使い分ける必要がある。同じ製薬会社であっても、研究職とMRなどの営業職では全く別の人種という印象を受ける。警察官だったら、刑事は人間が相手の仕事であって、鑑識・科捜研の人は人間よりも物体が対象ということになるのであろうか。

自分自身がどちらのタイプの人間かを考えると、自ずとやりたい仕事が見つかると思う。
中には両方得意という人もいるとは思うが、そういう人の職業選択の幅はかなり広くなる。

文系と理系の違い2

ユークリッドの原論によれば、点や直線の定義は部分や面積をもたない領域とある。でも、実際は点や直線は無定義用語と考えてよいので、そういった点や直線の定義は一旦忘れてもよい。すなわち、公理(公準)を満たすことだけが要求されているので、その要求さえ満たせば、点や直線はなんでもいいってことである。イメージしにくいが、点を机、直線をイスのようなイメージを持ちながら、以下の5つの公理(公準)を満たすのであれば、ユークリッド幾何学の定理はすべて証明されてしまう。数学は厳密化を重視するので、基本的すぎて人間が直感的に正しいと感じる法則は証明する必要がないし、実は証明することができないことにも気づく。

ユークリッド幾何学の5つの公理(公準)
1. 任意の点から任意の点へ直線を引くこと(少なくとも2つ以上の点があって、線分を描くことができる)
2. 有限な直線を連続的に直線に延長すること(ものさしの長さは有限であっても、直線の長さはいくら延長してもよい)
3. 任意の点を中心とする任意の半径の円を描くこと(コンパスを使って任意の点で任意の大きさの円を描く)
4. すべての直角は互いに等しい.
5. 直線が2直線と交わるとき,同じ側の内角の和が2直角より小さいなら,この2直線は限りなく延長されたとき,内角の和が2直角より小さい側において交わる(平行線の公理)

文系と理系の違い1

文系(例えば言語学)の世界では、すべての言葉(単語)は意味を持っていることが前提である。その言葉の意味を解説しているものが、国語事典(辞書)である。そういう前提では、専門用語などの言葉の意味の解説と違って、日常会話でごく普通に使っていて意味など解説するまでもないような基本的な単語の意味も当然解説しなければならない。基本的な言葉になればなるほど、基本的すぎてその言葉の意味の説明は困難となってくる。例えば、新選国語事典(小学館)で「右」(みぎ)という単語の意味を調べてみると、「①南に向かって東のほう」とある。次に「南」(みなみ)という単語を調べてみた。「①東にむかって右のほう」となっている。こういのは、循環論法といって、本質的には言葉の意味の説明になっていない。「事」(こと)という単語の意味を調べてみた。①意識や思考の対象となるもののなかで、「もの」と「もの」との関係や、時間の経過に伴う「もの」の変化など、形にあらわれにくいことがら。となっている。読めば読むほど意味が分からない。したがって、基本的な単語の意味は定義しなくてもよいという立場もある。

なぜScientistなのか?

日整会広報室ニュース107号の記事が面白かったので、忘れないうちに書き留めておこう。英語には接尾辞というのがあって、動詞にerを付け加えると、その動作を行う人間を表す。例えば、playする人はplayerであり、fightする人はfighterである。他の接尾辞には、主に職業を表す接尾辞ianやistなどがある。
前者の場合、音楽家はmusicianであり、数学者はmathematician、内科医はphysicianであり、小児科医はpediatricianである。後者には、pianist、violinist、dentistなどがある。これらを眺めると、istは専門家を意味しており、ianはその分野全体に精通しているという意味を持つことが分かる。physicianと言えば、内科医という意味であり、かなり漠然としているが、より専門的な医師はoncologist(癌専門医)、cardiologist(心臓専門医)などと呼ばれ、整形外科医はorthopedistと呼ばれる。多方面の知識を持つ人という意味のgeneralistがgeneralianとならないのは、このistは職業を表しているのではなく、むしろ、考え方や主義を表しているistと解釈すべきである。「病気を診るな、人を診ろ」という言葉がある。医師には専門外の知識を含め生涯幅広く勉強することが求められる。すなわち医師は外科医・内科医を問わずphysicianであることが理想的であると言える。科学分野においても、biologist(生物学者)、physicist(物理学者)などは何々イストであるが、それら全体を表す科学者がscienticianとならずにscientistとなるのは、この法則からすると不自然である。村上陽一郎氏の本を読めばこの疑問に対する答えが見つかるらしい。実は時間がなくて私自身まだ「なぜScientistなのか?」の理由を知らない。いつか時間に余裕ができたら、この疑問を解決したいと思う。